コーヒーと映画と与太と妄想と 第二回

私のコーヒー黎明期

大げさな見出しになったが“自分でコーヒーを淹れて飲む”ということを覚えたのは24歳の頃だ。18歳で上京してから6年ほど後のことだ。ではそれまで、一人暮らしの貧乏画学生は自室で何を飲んでいたか、というと、コーラは嫌いでジュースは苦手、お茶を淹れるのは面倒くさいという小娘の飲むものといえば、ティーバッグの紅茶かインスタントコーヒーだった。
紅茶はともかく、インスタントコーヒーは好きではなかった。けれど熱々の牛乳を入れてカフェ・オ・レにするとけっこう飲めた。そのときは子供の頃観てえらく感化されたフランソワ・トリュフォー監督の初長篇映画『大人は判ってくれない』で主人公アントワーヌ・ドワネル少年がやっていた飲み方を真似た。彼は朝、学校へ行く前、コーヒーカップではなくどんぶりのようなものにカフェ・オ・レを注いでグイッと飲むのである。新鮮だった。そのときは「あちらでは子供はカップを使わないのか」と思ったのだが、そのどんぶり、フランスでは“カフェ・オ・レ・ボウル”という名で売られ大人も使うということを後に海外雑誌で知った。しかし当時の日本にそのようなものが輸入されているわけがなく、大きめのご飯茶碗を利用してその気になって飲んでいた。
55年も前の話ですみません。今の人に当時の状況はなかなか掴めないでせうね? と思うので解説がてらどうでもいいことを長々と喋ることになるのだけれど、我が国におけるコーヒー生活者の一つの略歴を知っていただきたく、ご理解願います。

そういうことで自室ではインスタントコーヒーだったが、週に三日通うセツ・モードセミナーではその2階ラウンジにて淹れ立てのコーヒーを飲む恩恵にどっぷり浸れた。そこのカウンターには常に温度を管理されたコーヒーがポットに用意されているのだが、やはりみんなが目玉とするのは、午前と午後、午後と夜間の授業の合間に長沢節先生が直々に淹れてくれるドリップコーヒーだ。ドリップと言っても豆の種類など気にもしていない時代である。とにかく挽き立て、淹れ立てを飲めることが嬉しいのである。先生は豆を挽き、大きなネルのフィルターでその日面白かった話をしながらポタポタポタとゆっくり淹れる。それを受け止めるのは紺色の(だったと思う)10人分は入る大きな琺瑯のコーヒーポットである。
淹れ終わるとチリンチリンとベルの音が響く。昔々の学校で小使さんが授業開始の合図に使っていた手振りのベルの小型のものだ。それを振りながら先生が「コーヒーはいったよー」と叫ぶ。「僕は校長だけどさ、小使さんでもあるんだよ」と宣う先生、このベルを振るのが愉しみのようだった。ベルの音が聴こえるとその場にいたコはもちろん、教室のある階上から作品の飾られた1階から生徒たちが三々五々2階のラウンジへと集まって来て、カウンターの端に積まれたコーヒーカップに手を伸ばす。コーヒー所望の生徒が10人以上になると先生は2回に分けて淹れていた。
吹き抜けの室内にはこうばしいコーヒーの香りが漂い、若く生意気な連中の頑固な脳みそをゆるゆると緩めていく。カップ片手にだらだらとみんなが椅子や階段に腰を下ろすと、誰からともなく気さくな談義がスタートする。世の中の情勢(何しろ学生運動真っ盛りの頃だ)、ファッション、孤独、男女間の諸問題や性差別、親との確執、貧困の踏破、マスコミ批判・・・エトセトラ。先生を中心に誰もが言いたいことを言い合い小一時間、賢いコ、阿呆なコ、過激なコ、まともなコ、いろいろいて、まとまることなく論議は続き、ついに先生が「はい、もう時間切れ!」と言う。
年齢も経歴も趣味も思想もてんでにばらばらな人間の集まる混沌としたこの場に、先生の淹れた苦み走ったコーヒーの味はぴったりだった。コーヒーを飲みながら話すのは楽しいと知った。私はいつもお代わりをした。コーヒー料金があったかどうかは覚えていない。100円とか払ったような気もするが、無料だったような気もする。あったとしても私よりも貧乏だったコージズキンでさえお代わりしていたことを思うとそれは格安料金だったはずだ。この体験で私はコーヒーを何倍も飲む習慣を身に付けた。

ファッションや雑誌の世界で活躍されている先輩方もそのラウンジにはちょくちょく顔を出されていたが、その頃のコージズキンのインパクトの強さと言ったらタダゴトでなくひときわ目を引く存在だった。黒い帽子、黒いマント、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて、帽子からはみ出す髪は乱れて長かった。今や著名な絵本作家スズキコージ氏は年相応の穏やかなおじさま笑みを浮かべておられるが、若い当時はその特異な風貌に危機を感じて後ずさりする人も少なからずいた。
外見同様作品も風変わりで、凡人には想像もできないファンタジー世界のその天才的画風によりセツの授業料は免除されていた。私とは同い年で地方出身の貧乏学生同士仲良くなった。彼はその頃どこかの料理屋に住み込みで働いていたと思う。何人かでときどきフーテンのたまり場だった『新宿風月堂』にお茶しに行った。変わった人ばかりのそこでも彼は異彩を放っていた。いつだったか、帰りの電車賃しかないというのでコーヒーを奢った。フーテンのたまり場である『新宿風月堂』は当時の尖った流行の発信地だからか、お名前代込みのコーヒー料金はけっこう高かったと記憶している。後日コージズキンが「この前のお礼に」と新宿伊勢丹裏の屋台で天丼をご馳走してくれたが、天丼より『新宿風月堂』のコーヒー料金のほうが高かった。今思うと笑い話だ。

この後いろいろあって私は突如銀座にある洋画雑誌『スクリーン』 の編集部に入社した。そしてそのおかげで当時の銀座における面白いコーヒー事情を知ることになるが、その話はまた今度。コーヒーを自分で淹れるようになるのはまだまだまだまだ先である。

つづく。

第三回はこちら