コーヒーと映画と与太と妄想と 第三回

「コーヒー&シガレッツ」に思うこと

ジム・ジャームッシュ監督2003年の作品「コーヒー&シガレッツ」がやたらと好きで、この映画についてどこかで長々話したいと思い、4年前だったか、熊本日々新聞主催の「吉本由美とおしゃべりする映画会」で取り上げた。でも“あがり症”が災いして、会に参加の皆さまの前では思いの丈ほどはしゃべれずに、むずむずした後悔だけが残ってしまった。何ともはらわたがスッキリしない。それで今回のこのコラムにて思いの丈の残り分を掃き出させてもらおうという計画を立てたのです。よろしゅおます? 独りよがりの映画解(怪)説、どうぞお許し願います。

「コーヒー&シガレッツ」はジャームッシュ映画の中ではお遊びのような小品だ。10分ほどのショート・コントが11話並ぶモノクロ・オムニバスで、2005年の日本初公開のとき、どうでもいいような話の羅列に「途中で出たよ」と言う人も何人かいた。まだ若かった(といっても57歳)私はそのときその人たちにはっきりと「それは惜しいことをしたね」とは言えなかった。私もまだ青かったのだ。だが現在、長い年月を経たそのひと言は確信までに醸されている。「最後の最後、光り輝く宝ものが待っているのに」との付け足しを添えて。

コーヒーが狂言廻しの役となり、場所も時間も様々にコーヒーを飲み煙草を吸いながら、様々な役者が、様々なシチュエーションで、様々なことをしゃべり合う、という内容だ。大半はどうでもいいようなゆるい会話だけれど、コーヒーと共に心の中を解放したり、胸の内を暴露したりの展開もある。なるほど、コーヒーにはそういう“吐露を誘う”ヤバい効力があるのかもしれない、と改めて思う。

というように、笑わせながら人生の綾のような言葉を並べるのはジャームッシュの得意技だが、それが本作にはことのほかふんだんに発揮されて、小粒だがピリッと辛い山椒のような瞬間がいくつもある。だからだらだらとした会話であっても油断はできない。油断していたら見逃してしまう。初めて観たときから常にどこか見落としているんじゃないかと気になるため、名画座からレンタルビデオ・ショップへと手段を変えて繰り返し観てきた。あげく、この映画は私の中での見返し回数ダントツとなった。だからと言ってマイ・ベストという位置ではないが、“なんだが”“どうにも”気になってしかたのない愛しいアイツ的存在なのだ。

この映画は「気楽に作りたかった」とジャームッシュは言っている。1986年から2003年にわたる17年間、本来の映画を撮る合間のサイドワークとして11本撮り溜めたそうだ。だからか彼の映画に出演していた役者がこちらに何人も顔を見せている。おそらく本来の映画を撮りながら「ちょっとこっちにも顔を出せない?」みたいな感じで出演交渉をしたのだろう。「いいすよ」とか「あいつが相手なら」とか「だったらこういう話どお?」とか話し合っていたのかも、などと妄想してはニタニタ笑う。私にとってのジャームッシュ映画の魅力の一つがこのような“友だち気分が抜けないところ”だ。彼の全ての作品に浸透しているこの気分を私はとても愛している。もはや大御所中の大御所なのにいつまでも若者って感じが・・・いいな、と。

11のエピソードに出演しているのは子供も含めて24人。この数が多いのか少ないのか判らないが、顔ぶれはユニークだ。有名どころではトム・ウェイツ、イギー・ポップ、ケイト・ブランシェット、ロベルト・ベニーニ、ビル・マーレイなど。渋いところではスティーヴ・ブシェミ、アレックス・デスカス、アルフレッド・モリーナ、か。「○○に出ていたよね」とすぐにジャームッシュ映画の出演作が浮かぶ人たちばかりなのが愉しい。

クセの濃いウエイターおよびウエイターを演じている映画スターを演じる天下御免の名脇役2名と、最後の11話で“トリ”を務める老名優2名以外は、ほとんどが本人役(つまり俳優、ミュージシャン、ラッパー、モデルなど)で登場している。本人役と言っても、脚本があるのかないのか、演じているのかそのままなのか、はわからない。そこらへんのモヤモヤの取り扱いがジャームッシュは若い頃からずば抜けてうまかったが、本作品はそれが炸裂したというか集大成というか、そのことにノリまくっている感じが画面ぜんたいに漂ってワクワクさせる。

それが特に顕著なのが3番目のエピソード「カリフォルニアのどこかで」だ。トム・ウェイツとイギー・ポップというロック界の超大物、曲者同士がどことなく侘びしいダイナーで待ち合わせるという設定だ。「おっ、ひさしぶり」てな感じで会話は穏やかにスタートするが、コーヒーと煙草が進むにつれ互いに対しての感情がむらむらと角を出し、相手を指して言うしゃべりの内容がとげとげしくなる。でもそれもマジなのか演技なのかは区別が付かない。正直本音のような気もするが、ジャームッシュのことだから、好きなようにやらせている・・・ように見せながら実はきっちりと書き込まれた脚本がある気もする。そこらへんのモヤモヤの面白さと絶妙のオチで、10分ほどの短さながらこのエピソードは1993年のカンヌ映画祭短編映画部門のグランプリに輝いた。さすがだ。

しかし私が最も好きなエピソードは最後の11話、最後の最後に光り輝く宝ものとなった「シャンパン」だ。ビル・ライスとテイラー・ミードという撮影時80歳近い2人のおじいさんが、ビル清掃員の役を演じて静かに語り合うひとときが美しく描かれている。お二人ともハリウッドの名脇役らしいが、このお名前とお顔、恥ずかしながら私はこの作品で初めて知った。

清掃作業の10分間の休憩時間、薄暗いビルの片隅のテーブルにつき、紙コップに注いだコーヒーを飲みながら、沈黙とわずかな言葉を交わし合う2人。紙コップのコーヒーも自分たちにとってはシャンパンと変わりないと笑みを浮かべる。「あの歌を知ってるかい?」とテイラー・ミードおじいさんが言う。何かな?とビル・ライスおじいさんが顔を向ける。「マーラーの『私はこの世に忘れられ』だよ・・・この世で書かれたものの中で最も美しくて哀しい歌さ」とテイラーおじいさんは言う。そして「ああ、僕には聞こえてきた。君は聞こえてるかい?」と呟き、片手を当てて耳を澄ます。すると画面の向こうから微かに歌声が聞こえてきた。・・・♪私はこの世に忘れられた♪ という歌声がその艶やかで重い女性の声がテイラー・ミードおじいさんの顔を静かに覆っていく。うっとりと夢心地のような表情になったテイラー・ミードおじいさん、「私は少し眠らせてもらうよ」と瞼を閉じる。

この2人のおじいさんの味わい深い会話の内容を正しくは覚えていないが、初めて観たとき私は“老人”に深い感銘を受けた。興味を覚えた。そのとき私は還暦前の中年女でブリブリしていて、まだ老人世界の機微には疎い状態だった。それで、こういう谷底に深く落ち込んでいくような会話とひとときを捻出し味わうには、どんな風に生きていったらいいのだろうかと思いあぐねた。そうなれるまでに自分はあと何年生き延びればいいのだろうか。おばあさんでもこのおじいさんたちのような素敵な侘び方ができるだろうか。などなどを映画館のシートの中でもんもんと考えた。そして自分より5つも若い、たかだか52歳のジャームッシュが老人世界をこのように細やかに描けるなんてすごいと称賛し、嫉妬の炎をめらめらと燃やした。けれど今自分も老境寸前となると、このエピソードは老名優2人に「好きなようにやって下さい」と言って撮り始め、ジャームッシュ自身はカメラのこちら側で老人世界の至極の味をただ愉しみ味わっていたのでは、と思ったりもする。

2年ほど前、棚を整理していて未使用のノートを見つけた。開いてみたら真っさらのページになんとマーラーの歌曲「私はこの世に忘れられ」の訳詞が書き込まれているではないか。ビックリである。自分の字だから自分が書いたのに違いないが、いつ、どうして、どういう経過で書き込んだのかはどうしても思い出せない。私はどこからこの訳詞を調べ出したのだろう。手掛かりさえ浮かばないのだ。認知症の始まりか、と不安になる。パッキリ見事にその記憶だけが吹っ飛んでいる。少し前階段から落下して頭を思いきり打ったとき、その記憶だけが消えたとでもいうのだろうか。

ノートには頭に小文字で“「リュッケルトの詩による5つの歌曲」の中から”と書かれ、マーラー「私はこの世に忘れられ」とタイトルが付いていた。その下に、意訳: 山田誠 とある。それを書き写してみる。テイラー・ミードおじいさんが笑みを浮かべて聴いていた歌の内容はこういうものだったのだ。

 

私はこの世に忘れられた

世渡りが上手くなかったせいだろう

私について話す人ももはやいなくなった

 

どうせ死んでしまったと、いうことにでもなっているのだろう

死んだと思われても全然かまわない

だって私にはそうでないと否定することもできないから

現に死んでいるわけだし

 

もはやうるさい世間とはおさらばし

今や私は静かな場所でゆっくりとくつろいでいるのだ

たった独りで 我が平安の中に

我が愛の中に

そこで私は今でも生きているのだ

 

何かしらさっぱりして、死についての歌としては前向きな内容ではないだろうか。テイラー・ミードおじいさんの瞼を閉じた顔にふさわしい、あの場面には最高の選曲ではないかと、改めてジャームッシュのセンスの良さに頭が下がった。

 

 

つづく。

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