コーヒーと映画と与太と妄想と 第九回

へびの記憶

久しぶりにへびを見た・・・と思う。確かではないが、スルスルと叢に滑り込んで行ったあの灰色がかった暗緑色の尾の(先っぽの)長さと太さはトカゲのものではない・・・と思う。草を毟ろうとしゃがみ込んだそのときだった。叢で何者かが動き、消え去った。私は手を動かすことも忘れてしばらくぼーっと固まっていた。追いかけて確かめる勇気はない。けれど頭の中はあちこちを巡っていた。大昔やだいぶ前の、長いものと過ごした日々のことを。

今ウチの庭は大変なことになっている。まさにへび好みの鬱蒼とした雑草ジャングルである。何が生え何が育っているのか見分けられない“緑の大海”と言えばいいのか、むさ苦しいことこの上ない。森や林や草原でならば大いなる緑の大海に目を休ませ、深呼吸して安らいで、「気持ちいいねーっ!」と叫ぶところだが、自分の家の庭となると話が違ってくる。自然の中では心地良く思えたその光景も、住宅地の区切られた空間ではただただ息苦しく鬱陶しいだけだ。ならば手入れをすれば済む話だが、現在の私は庭の手入れが何より苦手な人間となっているのだ。
東京にいた頃は庭付きマンションの“陽の差さない緑の小庭”を愉しんでいた。しっとりと潤いのあるその庭で苔やランや蔦など世話して喜んでいた。自分ってわりかしジジイ趣味だな、なんて思っていた。
それが九州の実家に暮らすようになって一変した。南国の強烈な日差しに晒された“自分の手に余る広さの庭”に辟易しているのだ。好みの植物がほとんど日陰好きのためここでは育てられないし、代わりに繁栄するものは暑さに強い南国調の派手目のタイプでどうしても好きになれない。それもあって庭に愛情が持てないのだ。
しかし草は生い茂る。仕方なく毎年しぶしぶ草刈り機や草毟り道具などを準備して除草計画を立てるのだけれど、今年は異常気象のハードルがさらに上がり、7月、8月になると豪雨と猛暑の繰り返しだった。雨が上がると34度、35度、テラスの温度計では40度近くになっていた。そういう下での庭作業は年寄りにはやばい。毎年何人も亡くなっておられる。気象庁でさえ「外でのスポーツや庭仕事は控えましょう」と叫んでいる。それに力を得て、ほったらかしにしておいたその結末が目を覆いたくなる雑草ジャングルの出現なのだ。毎朝カーテンを引くのが怖かった。庭を見るのが怖かった。開けた戸から草いきれが襲ってくるのが怖かった。猛雨、猛暑、猛草・・・と、夏は一人暮らしの老女にとってまっこと厳しいサバイバル・ライフである。
それでもときは流れてくれる。9月に入り半ばとなると朝夕わずかに気温が下がり、草どものその凄まじい成長ぶりにも翳りが見えてきた。生い茂ってはいるのだけれど夏場の勢いはない。全体的に首を垂れてしょんぼりしている気配がある。で、何とはなしに庭に出てみたのである。そして試しに草でも毟ってやろうじゃないかと、しゃがみ込んでみたのである。そのときだった、スルスルスルと滑っていく灰色がかった暗緑色の尾っぽのようなものが目に入ったのは。へびではないかしら。と思ったけれど、が、しかし、草が繁っているのは見たところ我が家だけというこんな緑の少ない住宅地にいったいへびは棲めるものだろうか。
古くて広い土地が幾つにも分譲された近頃の新築住宅に庭はほとんどない。あっても玄関前やガレージ周りのささやかな空間で、よけいな草は除草されつるんと清潔な佇まいである。分譲された土地が狭いこともあるだろうが、今の時代庭は求められていないということが見えてくる。庭を持つのが家作りの夢だった時代は昔話となって、現在庭は重荷のようだ。私自身、お金はかかるし手間もかかって庭など持つもんじゃない、と念仏のように唱えているからもちろん共鳴する方なのだけれど、そのせいで住宅地全体がピカピカに乾いた状態に見えてしまうことにも寂しさを感じる。こんもりとした繁み、樹木の作る日陰、つまり陰影がその住宅地から消えて、ペラペラした映画のセットのような家並みになっているのだ。こういうところにへびは棲めるものだろうか。私は今までに二度へびとお近づきになったけれど、いずれも周りには緑深い公園があり苔むした寺があった。

一度目は大昔のことになる。小学生の夏休みを母の実家で過ごしていたときだった。米屋を営む祖父母の家には大きな梁が走っている。午後はその下になる二階の座敷に寝転んで過ごすのが日課だった。ある日、本を読んでいたら、すぐ傍に何かがドサッと落ちてきた。見ればそれは青くて大きなへびだった。激しく縦横に2、3回転したかと思うとあっという間に廊下の向こうの食器庫に消えて行った。驚きと恐怖で私は腰を抜かしそうになり、というか抜かしていたのかもしれないが、声も上げられず這いつくばって階段に向かい階下へ逃げた。
「へ、へ、へ、へびがいた!」と縁側で小豆を選り分けていた祖母に告げると「ああ、見たとね」と祖母は笑った。そして「あれは青大将で怖くはなかよ。もう長いことおらっしゃるへびさんたい。うちのヌシだからそっとしておいてやって」と言う。うちのジジババ、青大将と同居しているのかとさらにびっくりしたのだが、「飼っとると?」と訊くと「まさか」と笑って、「毒はないし、おとなしいし、日中は梁の上に寝て出てこないし、見て見ぬふりをしとるだけよ。うちは米屋だからね、ネズミ除けにありがたいこった」と言った。
私はそれまでに何回も二階の座敷に寝泊まりしている。へびは夜行性だ。ということは、寝ている間そのヌシとやらがそばをずりずり這いずり回っていたとしてもおかしくない。そう思うとゾッとして以後二階座敷には泊まれなくなったが、日中は動かないと聞き、ときどき上ってごろごろと午後を過ごした。この二階座敷には東と西に連子格子の窓があり、格子の開け閉めで日差しと風を調整できる。夏の午後、日差しが少し遮られ涼やかな風が通るそこで過ごすひとときは何にも増して心地良く、多分へび様がおられるであろう梁からはできるだけ離れて寝転んでいた。確認のため視線を凝らしても太い梁の上は見えないのだが、一度だけ、梁の向こうに尾っぽのようなものがチラッとぶら下がっているのを見た。「尾っぽをぶら下げていた」と祖母に報告すると「ヘビも寝るときくらいはだらっとしたくもなるだろうよ」と笑った。

それから長い年月を経て再度へびと対面したのは前世紀最後の夏だった。夕げの準備にキッチンにいたらテラス方面で猫がけたたましく喚く。びっくりして見に行くと開けていたガラス戸のこちら側で猫とへびが睨み合っていた。ガラス戸のこちら側、つまり部屋の中である。庭に面したリビングのそこはいつもは網戸を閉めているのだが、そのときは猫が外出からなかなか帰ってこないので開けていたのだ。カラスにでも襲われて逃げ込んできたのだろうか。
リビングで猫とへびとが今にも掴み合いそうな勢いで睨み合っている・・・というこの構図、巻物絵図にはあったかもしれないがこれをすぐさま現実と飲み込むことは至難の業だ。どう思っても“まさかこんなことが”である。右手に包丁、左手に人参を持ったまま、しばし私は呆然としていた。とるべき行動が浮かばない。どうしたらいいの、こんな場合! と叫んでみても誰もいない。
気を取り直し包丁と人参をキッチンに戻した。次に箒を手にして「しっしっ」とへびの近くで言ってみたが、ヘビも猫も私のことなど見ていない。互いに相手に呪いのオーラを投げかけ、今にでも飛び掛かろうと真剣である。ター坊(うちの猫)は背中の毛という毛をおっ立てて今まで聞いたことのない恐ろしい声を上げている。へびはとぐろをしっかと巻いてその中からシャッシャッと鎌首持ち上げ飛びつく隙を狙っている。間違ってこっちに飛び掛かられたら怖いので、少し離れたところから2匹に向けてクッションを投げた。するとワッてな感じで2匹は飛び離れ、ター坊は脱兎の如く部屋の奥に走り込み、へびはザザザとカーテンの下に隠れた。カーテンの下に、である。外に逃げ出すとばっかり思っていた私は焦った。いやだ、カーテンの下なんかにいて欲しくない! 部屋の中になんか、ゼッタイいて欲しくない!
しかし次の動きがないので「出て行け!」とばかりにカーテンの下を箒の柄の先で突いた。するとグルグルッと飛び回りながら出て来て、フルスピードで隣の棚の裏に潜り込んだから「オーマイガッ! 」である。どんどんまずい方向へ進む。レコードやら本やらがびっしり詰め込まれたこの棚を動かすことはまず無理で、どうすりゃいいの・・・。
数分見つめていたが棚の裏の動きはないので、取り敢えず途中だった夕飯の支度をしにキッチンへ戻った。きゅうりの千切りも味噌汁の味見も鮭の焼き具合も上の空だ。全神経はリビングの棚の裏に集まっている。猫の鋭敏な嗅覚にへびの匂いは引っかからないのか、ター坊はもう忘れたかのように食卓の椅子に座って身繕いしている。全神経を棚に注いだまま晩御飯を摂った。
洗い物も終わり、さて、となる。さて、この想像を絶する状況をどうやり過ごせばいいのだろう。猫との戦いも落ち着いたら出て行ってくれるだろうと外に面した網戸は開けておいた。だから、どうか出て行ってくれていますように、と祈りながら棚の一番下段のレコードを少しづつ取り出し始めた。いるのかいないのか、確かめないと落ち着けない。レコードは窓寄りの方から取り出し始めたが奥には何もいなくて壁が見えるだけだった。知らないうちに出て行ったかも、と少し安堵しながら中央に進み、半分ほど取り出したところにぶるぶる震えるへびの下半身が見えた。わっと飛び退いて尻餅をついた。そこにター坊が来て再び喚き出す。へびはますます棚の奥に進み、下の段のレコードを全部取り出しても姿が見えない。どうもその先の食堂にあるガス・エアコン機の裏に入り込んだようだ。今や部屋の中心部まで来られていよいよ困った状態になった。エアコン機は叩けないし動かせないし裏も覗けない。耳を寄せてもその裏からはコトンという音もしない。けれどいる気配は確実にある。
硬直したまま静かに夜は更けて行った。へびは見えているより見えない方が怖いと悟った。が、さらに怖いのが強盗だ。テラスの戸を閉めるか開けたままにするか迷ったが、へびより強盗の方が怖いので閉めることにした。それはつまり、へびと一晩ともに過ごすということである。怖い。ター坊を寝室に連れ込み、食堂との扉をピッタリ閉めて寝た。
翌朝、恐る恐るわずかに開けた扉から食堂を見回したけれど何の異常も見当たらない。意を決し扉を開けて食堂へ出た。続いて出てきたター坊が「シャーッ!」と喚いたのですぐわきの食卓の下を見ると、なんとそこにとぐろを巻いたへびがいるではないか! 部屋の中まで出て来たのかと腰が抜けそうになる。普通へびは人目を避ける生き物ではないか。それが部屋の真ん中に出てくるとはどういうことだろう。腹が減っているのだろうか。
しかしその朝は洗濯に買い物にと忙しく、へびの相手をしているヒマはなかった。無視してター坊にご飯を与え洗顔した。その間へびは食卓の下でとぐろを巻いてじっとしている。怖いので自分の朝ごはんは流しの前で摂った。食べながら観察した。人と充分に離れていると首を引っ込めてとぐろの上にちょこんと顔を乗せている。洗濯物を持ち運ぶために近くを通ると鎌首上げて警戒体制になる。面白いので何回も離れたり近づいたりしてみる。へびは律儀に首を上げたり下げたりした。全体を見てみると黄緑色の体に縦縞模様が何本かあるからシマヘビらしい。シマヘビは毒はないが手を出すと噛み付くし、獲物には素早く巻き付きどんどん締めて弱らせる、と今朝見た図鑑に書いてあったから、ター坊は気を付けなくてはならない。しかしそういう動物がなぜ都会━ここは港区白金台だ━の真ん中にあるこの家に入って来たのか? 隣が寺だからか。なぜ逃げないのか? テラスのガラス戸は開け放っている。なのにそっちには行こうともしないのか不思議でしようもない。
食卓の下からぜんぜん動かないのももう一つの謎だ。排尿脱糞はどうしているのか。へびのおしっこやうんちが部屋に散らばるのは嫌だ。人が、猫が、いないと動くのかもしれないとター坊と寝室に立てこもり様子を伺う。食堂・キッチン全体が見えるように扉を少し開けて、本を読んだり昼寝をしたり小一時間。隙間から覗いてみると、お、動いております、へび様が。ニョロニョロと一本に伸びて食堂の棚の脇に置いた猫の器を探っている。しかし、もしかして食べるかもと入れておいたドライフードは無視されたようだ。ついで籐のゴミ箱の中に頭を突っ込みゴミ屑を探っている。体長は130センチくらいだろうか、ぐいんと伸びた背中がどこかしら哀愁を帯びている。そのあとニョロニョロと方向転換して玄関の方向へ蠢いていく。多分玄関に置いているター坊の猫トイレを探りに行ったのだろうがそっちは視界から外れるのでしばらく待つ。再びニョロニョロ現れるとキッチン入口の小さなグラス用棚の下に入り込みとぐろを巻いた。そこにいられると台所仕事が進まないんだけどなあとまたまた焦る。

そんなこんなでシマヘビは四日間うちにいた。赤い瞳のその下に綺麗なアイラインが引かれているので「シマコ」と名付けた。部屋の隅をニョロニョロ這っていても私もター坊も騒がなくなった。心静かにとぐろを巻いているときの舌の色は青く、怒ったときは赤くなるのを初めて知った。鎌首上げるのも怒ったときだ。しかし何も食べていない。図鑑にはへびは数ヶ月食べなくても生きていけるとあるから大丈夫と思うが、今がまさに数ヵ月目のそのときかもしれぬ・・・と考えると気持ちがざわつく。シマコは散歩のように室内を這い回っている以外はキッチンの奥の棚の裏に潜り込んで過ごしている。私の目の届かない場所だ。そこで死なれたらたまったもんじゃない。何か食べるものをと動物に詳しい友だちに訊くと「生卵がいい」と言うので「割ってやるの?」と確認したら「バカか」と蔑まれた。それで殻ごとの生卵をキッチンの隅に置いてみたがそのまま残って四日目になったのだ。
部屋の中は少し生臭くなった。へびに家にいられるのはこれが限界かと思い、勇敢な友だちに捕獲を頼んだ。カモちゃんという女性である。棚を少し前に出し彼女は棚の上にのぼり入って行った。長く伸びていたシマコ、一瞬驚いたが大人しく隅に丸くなったという。カモちゃんが優しく洗濯ネットをかぶせると暴れることもなくその中に収まった。
シマコは庭に離した。スルスルと庭の隅の排水溝に向かって消えて行った。月日が経ち、二度ほど外庭で見かけたことがある。マンションの管理人さんにそう言うと「あれはここのヌシだから大事にしてやって」と、祖母と同じような返事をいただいた。部屋の中で撮った写真を当時バーテンダー修業に通っていたバーでみんなに披露したことがある。私としてはシマコよく撮れていると思ったのだが、そこで判ったのはへびの写真を見て喜ぶ人はまずいないということだった。

そういうこともあってへびには何かしら懐かしみを感じる。もはや自分の手ではどうしようもないので、そろそろ造園会社にこの雑草ジャングルの草刈りを頼まなくてはならないのだけれど、もし先日見かけた尾っぽがへびのものであったら、ここを刈り込んでしまうのはどうしたものかと、庭の悩みはさらに複雑な色を帯びてきた。

つづく。

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