コーヒーと映画と与太と妄想と 第十回

久しぶりにゴダールなど

フランス映画界ヌーヴェル・ヴァーグの旗手と言われた映画監督ジャン=リュック・ゴダールが9月13日に亡くなった。享年91歳。若い頃の熾烈なイメージからすると思いのほか長生きだった気がする。先鋭的天才的な存在はだいたい早死にするものと思っていたから。
ヌーヴェル・ヴァーグとは、と私ごときが偉そうに口にするのもおこがましいけれどご存じない若い方も多いと思うのでちょっぴり説明させていただく。フランス映画界のヌーヴェル・ヴァーグとは旧態依然のフランス映画界を刷新する新しい波(ヌーヴェル・ヴァーグ)という意味で、1950年代末から始まった若い映画作家たちによる映画革命運動のことだ。50年代末から60年代半ばに制作された彼らの作品を指す言葉でもある。助監督などの下積み経験なしでのデビュー、撮影方法も従来のスタジオ・セット撮影から手持ちカメラのロケ撮影へと軸を移し、即興演出や独創的なアングル、録音、編集と、それまでにない斬新な手法を特徴とする。中でも革命児として世の中を驚かせ、若者を虜にしたのがジャン=リュック・ゴダールである。
むろんその一派にはフランソワ・トリュフォーがいて、クロード・シャブロールさらにジャック・リヴェット、エリック・ロメール、アラン・レネ、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダ、etc・・・右岸派左岸派合わさって好きな監督の名前が続くのだけれど、ここまで書いてきてハッとした。今回改めてそれら綺羅星のごとき名を眺めると、結局自分が好きなフランス映画、よく観たフランス映画とはこの人たち、ヌーヴェル・ヴァーグの連中の作品だったな、ということに思い至ったのだ。底の浅さを露呈することになるが、それ以前のフランス映画、それ以後のフランス映画をあまり観ていない。いや観るには観ているがあまり覚えていないということに、残りわずかな年齢となった今初めて気が付いた。うーん、これには焦った。映画好きとしてこの偏りはちょっと反省すべきことかもしれない。

などとグタグタ思いつつ本題に戻ると、そのヌーヴェル・ヴァーグの綺羅星だった監督たちの大半が既に天に召されているのだからゴダールが91歳で亡くなったとラジオのニュースで聞いても何の驚きもなかったのだ。けれどそのあとで新聞を開いた私のマナコは新聞紙上に釘付けとなる。新聞紙上のどこにかと言うと“自殺幇助”という四文字にである。ビックリしたのだ。
記事には彼は自殺幇助による死を選んだ、とあった。ゴダールの自宅はスイスにあり、スイスでは“人道的な理由や非営利の目的であることを条件に実質的に自殺幇助が認められている”と書かれていた。そのことは日本人女性がスイスへ行き自殺を幇助する団体の施設で自死をやり遂げるまでを追ったドキュメンタリー番組を見て知っていたが、たまたまゴダール死去の報道のとき読んでいた本が哲学者須原一秀さんの著書『自死という生き方』だったからタイムリー過ぎると驚いたのだ。タイムリーと言うと怒られそうだがこの重なりはタイムリーと言うほかない。91歳のゴダールは日常生活に支障をきたす病を複数患っていて、近親者によると「病気ではなかった、ただ疲れ果てていた」そうで自殺幇助による死を選んだと記事にはあった。その疲れ果てた状態のまま息絶えることを自然死と呼ぶから、彼の年齢を考えると自然死直前の決行だった。少し遅れるとゴダールは苦しみに包まれたまま息絶えなければならなかったのかもしれない。
そういうゴダールと、老醜や自然死から逃れるためにまだまだ元気な“65歳の春、晴朗で健全で、そして平常心で自死を決行”した須原さんとでは死せる理由がだいぶ違うが、どう死ぬべきか、これから死に方を考えるとき両輪の歯のようにこの二つのやり方が頭の隅っこで火を灯しそうだ。

ゴダールの訃報を聞いたせいか久しぶりに彼の息遣いを感じてみたくなった。もう何十年も忘れていたあの独特の空気感に触れてみたくなった。私は若い頃観て好きでどうしようもなくなった映画は再見しないことにしている。そのときの感動が冷めるのではないかと不安なのだ。仕事などで何度かそういう経験をした。やはり若い心のスポンジのような吸収力も年を重ねてしまうと衰えるようだった。感動するにはするのだけれど、あの弾むような痺れ感は薄らいでいる。なので心底大事に思う作品は再見していない。そういう映画はゴダール作品で言えば初期の『勝手にしやがれ』『軽蔑』『気狂いピエロ』の3本で、映画館でもDVDでも観ていない。もちろん初公開時に何回も見たから内容もシーンも色彩も音楽も今でも鮮明に覚えている。覚えてはいるが、果たして今見返して当時のようなときめきを感じるかどうかは定かでない。それが怖くて観られないでいるのだ。
というわけなので、うちにあるゴダールのDVDはたった2本だ。1本は1961年の『女は女である』でこれは仕事のために購入した。もう1本は『恋人のいる時間』。こっちは「山のようにあるDVDを処分するけど欲しいのある?」と聞いてきた友だちからいつか観るかもと念の為に送ってもらったものだ。で、ゴダール死去を知ったその日がいつか観るときかもと観ることにした。
『恋人のいる時間』は1964年公開(日本では1965年公開)のマーシャ・メリル主演ゴダールの長篇劇映画第8作目だ。ひと言で言えば人妻の不倫話で、「ある既婚女性、1964年に撮影された映画の諸断片のつながり」という不思議な原題通りに、人妻が夫と愛人のどちらを選ぶか迷い続ける昼下がりから翌朝までの1日を断片的につなげていく。
不倫話と言ってもゴダールだからドロドロ感は皆無である。ベッドシーンであるにも拘らず、手や脚や背中、首筋のクローズアップに重なる、人妻と愛人、人妻と夫、との言葉遊びとも思えるダイアローグがやはりソートー面白く、字幕に見入ってしまった。ゴダールの映画は言葉が重要な役者である。モノローグ、ダイアローグ、引用が彼の作品の屋台骨で、この作品でもその働きは変わらない。目まぐるしく移動するカメラワークやネガとポジの反転といった実験的手法は今や普通のことになったが、当時は鳥肌ものの演出で、若干33歳ゴダールのエスプリに満ちた95分はあっという間に過ぎ去った。
思えばこの映画を初めて観たのは本邦初公開の1965年か66年で、私は高校2年か3年生だった。ゴダールの作品とはいえ情事の場面が多く18歳未満お断りだったのかもしれないが制服ではなかったので入場できた。場内は一種不穏な空気の中で、地方の高校生はマーシャ・メリルの変形おかっぱやデカパン(お臍までくる大きなパンツ)や白シャツ+プリーツスカートに肩に羽織ったカーディガンというスタイルにインスパイアされ、大人になったらこういう格好をしようと思った。愛人とはセックスのあと手を洗い、夫とはその前に洗う、という行為にはどういう意味があるのだろうかと考えたが高校生にはわからなかった。
観終わってホールに出ると何と中2のときの担任だった坂口先生にばったり出くわした。「オッ、ヨシモト」「アッ、せんせー」互いに叫んで顔を見合わせ赤くなった。「お前、こんな映画を見るのか?」と先生。「せんせー、ゴダール好きなの?」と私。えへらえへらと笑い合う。何せ情事の場面が三分の一はある映画のあとだから先生と元生徒は半端なく照れ臭いのだ。えへらえへら笑いながら出口に出てお別れした。
家でDVDを観ながら57、8年前のそのようなことを思い出し、決して卑猥な映画ではないが坂口先生もばつが悪かったろうなと笑った。それからマーシャ・メリル演じる主婦がバスルームで脚の手入れをしながら口ずさんでいたシャルル・アズナブールの歌「恋は一日のように」を思い出し、棚からアズナブールのレコードを探して取り出した。「恋は一日のように」は『Golden Aznavour Double Deluxe』という2枚組レコードの第2面4番目にあった。ライナーノーツに書かれた歌詞はこうだ。
♪太陽は火と燃えているが、ぼくの目に映るのは、君の瞳のみ、君の裸体の白さのみ。おいで、春を、ぼくたちの愛の喜びを死なせてはいけない〜♪
なるほどなあ、これから愛人との密会へ出向くという主婦なら口ずさみたくもなる歌だと思いつつ、そんな用事などない自分だけれどフンフンフンと鼻を鳴らせ購入したてのターンテーブルにレコードを乗せて針を降ろした。
このアルバムにはゴダールにわずかだけれど関わりのある曲がもう1曲入っている。それは第3面4番目の「のらくらもの」という歌だ。『女は女である』の中で、カフェにてアンナ・カリーナがベルモンドに恋人との悩みを打ち明けている場面で流れる。カリーナがジュークボックスでこの曲をかけると店内に朗々とアズナブールの歌声が満ちていき、この映画を観たのは高校入りたてのときだったが私は初めてフランスにはジルベール・ベコーのみならずシャルル・アズナブールというシャンソンの名手がいることを知ったのだ。ここに書く歌詞はレコードの曲目解説に大まとめに書かれていたもので、それはこんな内容だ。
♪おれはもう見ても何も感じないお前の体を、
笑いたくて仕方がない。
もうたくさんだ。
お前はひどいもんだ。
5年の間にずいぶん変わった。
愛を感じることなどできやしない。
おれには口答えし、怒鳴る。
お前に合った日に黙っていたのは、ありゃうますぎてた。
けれど、ともかくおれの妻、
ちょっと努力さえすればもと通りになる。
少女の時に帰りゃ昔のように愛してしまうさ。
お前はのらくらしてるけど。♪
ライナーノーツには悪妻を持った男の歌と書かれていたけれど、だらしなくなった奥さんを戒める歌なんて過去にあっただろうか、私は知らない。こんな内容が歌になるなんて、と、子供ながら半分仰天、半分感動して、映画の中でこの曲を聴きながらカリーナが涙ぐむのを可愛いなあと眺めていた。当時恋人であるアンナ・カリーナの浮気癖にゴダールは悩まされ続けたと聞くが、こういうシーンを撮ったゴダールのそのときの気持ちとはどういうものか・・・なんておしゃまに考えながら。

つづく

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