コーヒーと映画と与太と妄想と 第十一回

雪が降る

庭に雪が降っている。少し前は強風に煽られて右から左へ、左から右へと群舞のように舞っていたが、今や静かに降り重なって、アッという間に地面が白く面変わりした。今日は10年に一度という大寒波の初日である。三日ほど続くらしい。北はもちろん南の九州も警報級の大雪の恐れ。私の住む熊本にも暴風雪の警報が出ている。夕方の現在はマイナス2℃、夜はマイナス5℃にまで下がるという。スマホのアプリで確かめるとさらに明日の最低気温はマイナス6℃という予報。マイナス6℃なんて北国の人からすれば驚くほどの数字ではないのだろうが、南方住まいとしてはけっこう身構える。午前中、水道管の凍結予防と庭猫たちの防寒対策に勤しみながら、あらためて北国の皆さんのご苦労を思った。日に幾度もの道路の雪かき、屋根の雪下ろし・・・、寒い中尋常ではない重労働だ。そういう映像をニュースで見るたび、“女学校時代の親友が新潟へ嫁いで行ったが雪深い暮らしの中で鬱になり3年で出戻ってきた”という母の昔話を思い出す。冬は毎日雪でお日様を見ることがほとんどなかった、とか、一階は雪に埋まっているので出入りは2階の窓からだった、とか、部屋の中にはいつも洗濯物が干されて息が詰まった、とか、新鮮な野菜の代わりに漬物ばかり食べていた、とか、療養中のその人を見舞うたび雪国暮らしの苦労を聞かされまいったと言う。「お相手をあんなに好きで嫁いで行ったのに雪に負けなさったんだねえ。九州育ちだから仕方なか」と、認知症の始まりかけた頭の中を旅するような目をして母はそう語った。
その人の気持ちはわかる。私も毎日雪が降ってお日様を拝めない日が続くのは嫌だ。人間も猫や草木同様に、陽が差せば元気が出て、差さない時間が長いと萎れる。鬱にもなろう。鬱を治すいちばんの薬は日光浴とどこかのお医者さんがテレビで言っていた。
けれどたまに降る雪は好きだ。熊本でもたまには大雪になっていたようで、雪だるまを作って笑っている写真が何枚もある。雪化粧した庭で弟の子供時代のコートを着た犬のレオと転げ回っている写真もある。そういえばだいぶ後になるがもう誰もいなくなった家の2階のベランダの、うっすら積もった雪の上に花模様のようについていた猫の足跡を見つけて驚いた朝もあった。施設に入った両親との面会で帰省していたときのことで、これが大きな人の靴跡だったらどんなに怖かったことかと一人泣き笑いしたのだった。このようにごくごくたまにささやかに降る雪は思い出を作る。楽しみの一つであり、天からの贈り物のようなもので、九州の人間は降雪の本当の怖さを知らない。で、私のような大口叩きの人間も出てくるのだろう、20年前に出した『日本のはしっこへ行ってみた』という旅本の中で“北海道へは真冬に行くのが私の掟だ”などと偉そうに宣っているのだ。
それは1999年2月の極寒のとき、釧路、阿寒湖をめぐり、釧網線で釧路原野を縦断し網走へ向かった旅についての回想記である。雪にすっぽり覆われた、それゆえ入園者は我々旅の3人組以外いなかった釧路動物園の恐ろしいほどの寒さと静寂にノックアウトされ、湿原の丹頂の里では目の前で繰り広げられるタンチョウヅルの優雅なダンスを震えながら堪能し、網走港からは流氷観光砕氷船おーろら号に乗って流氷で真っ白になった海を歯をガチガチ鳴らせながら眺めた。三泊四日のその旅の寒さは筆舌に尽くせないほどだった。けれど楽しかったし幸せだった、私は寒い北国が好きだ、と書いて満足した。けれどそれはたった数日の滞在だからで、実際北国に暮らす人たちが読んだらきっと失笑ものだったろうと、今でもたまに思い返しては身の置き所がなくなるくらい恥ずかしくなることがある。
それにも懲りず今また雪旅の思い出を書こうとしているのだから困ったものだ。これもよく旅をした30年ほど前の中から忘れられない小話を。
ある年の1月、佐渡島に行った。その頃はちょうどチェロを購入したてで、バッハの「無伴奏チェロ組曲」をよく聴いたときで、ふと”冬の日本海の荒れ狂う波を見ながらこのプレリュードを聴いてみたい”と閃いたのだ。重厚なチェロの旋律は暗い日本海によく似合うのではと。それにふさわしい場所はどこかと調べて佐渡島にした。一人で行くには少々地味すぎる旅先なのでその頃の旅の相棒に振ってみた、「佐渡島の金山でも見に行かない?」と。彼はすぐに乗って言った、「おお佐渡島か!冬行くのに最適なところだ」と。
新潟港からフェリー(かなり前だからホバークラフトだったかも)に乗って佐渡汽船両津港へ。期待通りに海は大荒れで揺れに揺れる中窓の外を見る。すると波間から見える海は意外や明るいサファイア・ブルーだ。冬の日本海は暗いとばかり思っていたので驚いた。それは新鮮な発見だった。そうか日本海でも明るいときはあるのである。その頃の旅では常にポータブルMDレコーダーを持参して、今回は冬の北国で聴くのだからとバッバの曲を多く持って来ていたが、サファイア・ブルーを見たら即アラン・パーソンズ・プロジェクトの「アイ・イン・ザ・スカイ」を取り出して聴いた。ドド ドド ドド ドドという小刻みなリズムとクリアーなメロディーが揺れとサファイア・ブルーの海面によく似合った。今回の旅も良い出だしだと一人ニンマリ笑顔になった。
両津港からバスに乗って島を横断し、島の西側になる相川へ向かった。言った手前佐渡金山を見学して旅館へ行った。冬の北国は午後3時を過ぎると暗くて夜に近く、旅館は死んだように静かだった。女将さん、番頭さん、中居さんに迎えられた。館内がやたら静かなので女将さんに訊ねたら「お客さんはあなた方だけだから」と言われた。佐渡島は夏場賑わうが真冬ともなると観光客はほとんどないそうだ。だから従業員の多くは自宅待機で自分の仕事、例えば海に関わる内職などをやっている。「あなた方のように変わったお客さんがおいでのときだけ、みんなを呼び出す」のだと女将さんは金歯を見せて笑って言った。そんな話を聞かされると・・・恐縮せざるを得ないではないか。
12畳くらいの部屋に石油ストーブが3つも置かれてビックリしていると、館内暖房は止めてあるから、と、お茶を入れに来た中居さんがストーブに点火しながら言った。「暖かくなったね」とくつろいでいると番頭さんが「お風呂が沸きました」と言いに来た。広い風呂場に広い湯船。きっとたった二人の客のために朝から掃除して湯を沸かしたんだと思うと申しわけない気分になった。夕ご飯も広い宴会場の真ん中にぽつんと二人だけである。それでも新鮮な魚料理が並んでいて「おいしそー」と声を上げると、熱燗を運んできた中居さんから「新潟の実家に帰っていた板さんをわざわざ呼び寄せましたからね」と聞かされた。もはや板場まで行ってお礼の心をお伝えするしかないような気分である。それでも心づくしの料理に満足して部屋に戻ろうとすると、番頭さんが慌てて出てきて「館内の灯りはほとんど消しているので」と手に持った行燈のような照明で足元を照らし部屋まで誘導してくれた。手厚くおもてなしされながらもどこか居心地の悪さを感じて複雑な気持ちになった1日目だった。
さて翌日は朝から吹雪いて格好の“バッハを聴くに最高の空模様”である。「バスはなかなか来ませんよ」という女将のアドバイスに従ってタクシーを呼んでもらって今回の目的地、七浦海岸へ向かった。七浦海岸は佐渡島の西に位置する尖閣湾を囲むように繋がる長い海岸線の下の方にある。奇岩林立の険しい岩場が多く見られる景勝地で、旅のガイドブックで調べて「岩場ならここだ」と目星をつけていたのだ。私はこういう調べものをしているときが旅の行程でいちばん楽しい。その次にワクワクするのが家から出て列車なり飛行機なり船なりに乗り込む瞬間だ。その日もワクワクして宿の前からタクシーに乗り行き先を告げた。吹雪いている日、荒れ狂う波が激しく打ち寄せる岩場に行こうかとする男女二人連れをもしかしたら心中かとかあやしく思ったのだろうか、しばらく走ったのち運転手さん、ぽつりと「こんなに吹雪いとる中をそんなところに何をしに行かれますか?」と訊ねるのだった。相棒は「何しに行くと思われますか?」と面白がって問い返す。チラチラとバックミラーを覗きながら「さあ」と答えた運転手さん、車が止まるまで無言になって、止まると「ここがその場所です」と言った。「ありがとう」私たちは料金を払い、正解を与えないままタクシーから降りて海岸へ向かった。運転手さん、見てるかな?と笑いながら。
七浦海岸は想像以上に美しかった。暴風雪に近い中浜辺を歩いているとことのほか岩場の多いところへ着いたので地図を見る。そこが景勝地の夫婦岩だった。確かにさまざまな大きさの岩に混じって格別に大きな岩が二つ並んでそそり立っている。暗い空、強い風に横殴りに降る雪、昨日とは正反対の灰色の海面、次々に押し寄せる黒い波と岩に当たって打ち砕ける白い泡飛沫。不穏な気配がムンムンする。目の前に広がるこの海のはるか向こうは朝鮮半島だ、チェロの低く憂鬱でもある音にはぴったりの背景ではないか、と喜んで、平べったい岩場の先の先「それ以上先には行くなよ。行くと彼の思い通りのことになるぞ」と念を押された突端近くまで行って佇んだ。もうサスペンス・ドラマのワンシーンである。運転手さん、心配して何処かから見てるんじゃないか、なんて考えて笑って足元を覗けば渦巻く波と飛び散る飛沫に目が眩みそうで、おっとヤバいと両足でしっかり足場を踏み締めた。
ダウンコートの内ポケットからおもむろに薬物入りの瓶ならぬ緑色のポータブルMDレコーダーを取り出して、イヤホンを耳に押し込み、昨夜セットしておいたヨーヨー・マ演奏の「バッハ無伴奏組曲」をONにした。ピエール・フルニエの演奏も持って来ていて、ヨーヨー・マが終わったらフルニエをかけ、聴き比べようという計画だ。全曲聴いていたら夕方になるし寒いしで、共に第一番だけ聴くことにした。そしそれで充分だった。成果は思った通り、日本海の暗い海と横殴りの雪には、チェロの音が、特にバッハが、さらに絞ると「無伴奏組曲」が似合うという実証を得た。岩礁の先から戻ると相棒はわずかに残る草の上に腰を下ろし、煙草をふかし、旅館前の煙草屋で買ったスポーツ新聞を読んでいた。
午後から大雪になる。帰りのバスを待っていると帽子もコートもみるみる雪に包まれる。東京で「わあ雪だ!雪だ!」と騒いでいたのがちゃんちゃらおかしくなるほどの降り様だ。ラッキーにもバスは意外に早く来て大雪の中無事に両津港に到着した。ところがである。改札に行くと大雪のため本日のフェリー(ホバークラフトかもしれないが)運航は停止との表示が出ている。びっくりした。けれどこういうことも旅の一つよ、と、次なる方針を立てに喫茶店へ行こうとしたが、近くに見つからない。とにかく大雪で視界が効かない。新潟に帰れないとすると今夜の宿を探さなきゃならない。切符売り場の人に教わり近くの旅館へ飛び込んだ。
予約なしの客は前金で、と言われ、ハタ、とそのとき我らは立ち竦む。思えば金がないのだった。フェリー(ホバークラフトかも)料金も列車料金も往復チケットで購入済みゆえ相川の旅館代を残してほとんど新潟で使ってしまっていた。市場で蟹を買ったのが響いた。お世話になったあの人に、不義理をしているこの人に、と大枚叩いて何人かに送ってしまった。その日は日曜日、銀行も郵便局もお休みである。まだATMのできる前の話である。コンビニは東京にはあったかもしれないが、遥か遠くの地方にはまだない頃の話である。女将さんと番頭さんが慌てる我らを嘲笑うように眺めていたのを覚えている。「金目のものがあればそれをお預かりして、後日入金確認のあとお返しするという形でどうですか?」と面倒臭そうに女将さん解決策を与えてくれた。しかし金目のものったって、並のサラリーマンと平均所得以下の私の二人である、腕時計くらいしかない。腕時計たって安物だ。彼はスポーツウォッチで、私のなんて文化屋雑貨店で買った2千円程度のものだ。「アクセサリーでもいいですよ?」と聞かれ「そんなのはしていない」と答えると、またまた嘲笑われたような気がした。笑うとここの女将さんも右上に金歯があり、それがやたらとキラキラしていたのを覚えている。相棒が念書をかいて腕時計、免許証、会社員証を渡した。私も腕時計とMDレコーダーを預けて、やっとのことその宿に一泊できることになった。八畳ほどの侘しい部屋で湯豆腐のようなものを箸で突きながら、「油断したね」「俺ら貧乏なんだなあ」としみじみ話した。外は大雪が降っていた。

つづく。

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