「ぼくのコーヒー地図」書評 早坂 大輔(盛岡 BOOKNERD)

ナチスは「アーリア人種」という神話的な超人種族を持ち出し、ドイツ民族の選民としての優越性を説いた。かの有名なハーケンクロイツもシュリーマンが発見した古代のシンボルであったもので、その宗教的・神秘的シンボルをアーリア人の象徴として採用した。ナチズムの根底にあったのは科学的な合理主義ではなく、古代の神秘、人種的優越性、終末論的なビジョンといったオカルト的・神秘主義的要素で、これらをプロバガンダとして大衆の感情に訴えかけ、体制への熱狂的な支持を集めるために活用したのだった。

イスラム神秘主義(スーフィズム)の教団員たちが聖なる黒い飲み物として愛飲していたルーツに倣うかのように、日本における喫茶という場もかつては「神秘主義」的ムードに包まれていたのではなかったか。恭しく店主がコーヒーを淹れる所作や、そのストイックな精神性。まるで神を詣でるように、その信奉者たちはお目当ての店を訪ね、聖なる飲み物を厳かに味わう。

神と社(やしろ)、そして信者たち。マスメディアというプロバガンダによって発展してきた日本のコーヒーカルチャーに、ベンヤミン言うところの「脱神秘化」が起こったのは、はるか海の彼方からやってきたヌーヴェル・バーグ(新たな波)によってだった。ダダ的、というかパンク的な手法のコラージュ。DIY的、自主独立を重んじる精神性。店内に鳴り響くラウドなロックンロールの如く、彼らはわたしたち大衆の手にコーヒーという飲み物を取り戻したかに思えた。

ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で喝破したように、写真や映画などの複製技術が、伝統的な芸術作品から「アウラ」をはぎとり、芸術の民主化をもたらした結果「アウラの凋落」を招いたことと同じく、社会的権威をはぎ取られたコーヒーカルチャーにおいても民主化、大衆化によってアウラの凋落が起こって久しい。だがそうした時代に、作り手(淹れ)と飲み手がどのような共犯関係を築いていくのが相応しいのだろうか。その最適解はまだどこにも出ていないような気がする。

岡本仁さんの『ぼくのコーヒー地図』がそれとなく(小さな声で)示唆しているのは、神なき時代のコーヒーカルチャーの未来である。権威主義や全体主義からはなれ、サロンの言語から民主的な言語を取り戻すための「コーヒーを淹れる/飲む」という行為の健全で、風通しのよい未来のための提言。『ぼくのコーヒー地図』が相対的評価としてのガイドブックではなく、自身の感覚や経験を最大化するためのよき伴侶として使われることを期待する。