「ぼくのコーヒー地図」書評 堀部 篤史(京都 誠光社)

喫茶店って、客が使い方を決めますよね。例えば、ライブや観劇前の待ち合わせ場所だったり、その反対にさっき観た映画の話をしたくてとか、買った本を帰る前にまず開く場所だったり、マスターと床屋政談しに足繁く通うだとかそんな目的の人も少なくないだろうし、もちろん美味しいコーヒーを味わうため、という使い方もあるでしょう。客が主体性をもって使う店、という意味においては、都市そのもののミニチュアというか、写し絵というかみたいな存在で、入れ子構造のようでもある。

都市というものは当然人間が創るものですが、その発生には大きく分けて二種類ある。輸送の便がいい川沿いとか海辺に、マーケットが出来て、そこで働く人たちが住み着いて、そこに働く人が買い物する市場がまたできて、最後にその人達が憩うための場所ができる。反対に、何もない土地や元あった集落を行政なりデベロッパーが改変して、居住スペースを造り、マーケットやオフィス街と道路や鉄道などのインフラで接続する、つまり都市開発によって生まれる街。

その二つにおける最大の違いとは何かというと、住民に主体性があるかどうか。だって、「ここは通勤路です」「マーケットへ行くまでの通路です」と決められた上、車でしか移動できない、なんてどう考えても抑圧されている。野菜売れないから穀物売ろうかとか、売る側が買う側の要請を受けて自由に鞍替えできてマーケットはローカリティを獲得していくし、家の前の道路に椅子出してチェスやったり、子どもがキャッチボールしているようなあり方とは大きく違う。

主体的に用途を決められないという意味では、ウェブ空間っつうか、SNSなんかもそうですよね。こう使ってください、投稿に音楽を添えられるようになってそれやったらアクセス増えます(ついでに自己承認欲求も満たされる)よとか、テキストは何文字までで、画像はこうねとか言われて、みんな決められたルールにすごく忠実に投稿している。そこではルールや誘導すらも前景化されないので(住環境に疑問を抱かないのと同じ)、皆が抑圧されていることさえ気が付かず(でも本当はイライラしている、炎上という「お祭り」で定期的かつ周到なガス抜きが行われる)、現実とはまったく違うコミュニケーションのあり方に四苦八苦している。都市とSNSも、都市と喫茶と同様、相似形かつ入れ子状になっているのです。

いつのまにかちらほら見かける排除ベンチとか、固くて座りにくい椅子とかって、そういう都市の抑圧の顕在化、かなり市民側へと物理的にせり出してきている象徴で、話は飛ぶようだけど、スケートボードやってる人たちってそういうのを遊び場にしちゃうわけです。そこには当然法的なグレイゾーンがつきまとうんだけど、そこは最前衛なので、当然せめぎ合いがある。グラフィティは落書きで器物破損だけど、バンクシーが駐車場(PARKING)にちょっとイタズラをして、ブランコ載ってる女の子描いて公園(PARK)にするなんていうのは、あからさまに都市からの抑圧への反発なわけです。描かれてる街の住人しっかりしろよって話。屋台が減ってきているのも同じだと思う。

都市の抑圧に対してそうやって、落書きしたり、ゲリラ的にお祭り開いたり、スケボーみたいな「遊び」で抵抗するというあり方以外に、「解釈する」というのもあって、岡本さんがこの本でやっているのはそういうことだと思います。商業ビルの中通って向こう抜けたらあそこ行くまでの近道だよ、とか、屋上飛び移ったらあそこまで捕まらずに逃げられる(ディカプリオは唐突に落っこちたけど)とか、そういうのも都市の「解釈」。そうやって自分なりの見方で街の導線を描けば、都市が誘導し、強制してくる街のあり方と違うものが見えてくる。ここに行った帰りはそこで買ったものを肴にマスターと会話するだとか、長距離移動の前にはここでボーッと時間を潰すとか、まず自分なりの使い方を決める。その主体性によって都市の抑圧をかわし、さらにはいろんなことに目をつぶりながらも「こうあって欲しい」という街のあり方を描くこともできる。

こういうあり方はおそらく、大きな声で体制批判していた人たちがあっけなく転向したり、他者を抑圧する様子を肌身で感じたからなんじゃないかな。世界が変わらないのであれば主体的に理想の世界を描けばいいという転換。その中心にある喫茶店でも、ここは自分にとってはこういう場所だと主体的に使い方を決める。主体的に使い方を決められる店ってどんな店?または主体的に使い方を決められる店との関係ってどんな関係?そんなことが書かれた本だと思います。もちろんその通り書いてませんよ。でもメタメッセージが読み取れない/込められていない本なんて、アプリかなんかに取って代わられたって全然いいと思います。だからこの本はちゃんと紙で、お店で買ってくださいね。あと、これは都市や街の主体的な使い方を決める楽しさや喜びを描いた本なので、その使い方をこの本に決められるっていうのは本末転倒だと思う。

そうですよね岡本さん?あれ、違ったかも(笑)

 

堀部篤史(談)