コーヒーと映画と与太と妄想と 第一回

喫茶店に育てられ

20代半ばから40代前半まで女性誌のインテリアや雑貨のページのスタイリストをしていた。その頃はほぼ毎日、調子にのったら朝から夜まで、撮影用のモノを探してあの街この街出歩いた。すると足が棒になり腰もぐにゃぐにゃ、目が頭が疲れて若いとはいえヘトヘトになる。なので、足を休ませ、目を休ませ、脳みそも緩ませて、小一時間ほど透明人間になれるコーヒーブレイクが何よりも大事だった。日に2度3度、店に入った。
もう40数年も前の話になるが、その頃は今のようなカフェやコーヒーショップはなく、憩わせていただく先はだいたいが喫茶店だった。当時は新宿はもちろん、銀座にも渋谷にも青山にも神田にも、まだ喫茶店が(おおげさだけれど)メジロ押しにあり、お洒落なところから煮しめのようなところまで多種多様に存在して飽きることがなかった。たまには気分転換にと、明るく広々とした洋菓子店やカフェテラスなどと呼ばれる新しい店に入ったけれど、やはり憩えるのは薄暗くどちらかというと閉鎖的な喫茶店のほうで、やれやれと深いソファに腰を下ろし、コーヒーを頼み、一服するときのあの瞬間は、煙草をやめた今でも“至福のとき”と思う。
紅茶が嫌いなわけではないが何故か喫茶店ではコーヒーを飲んだ。1杯のときもあるし、2杯3杯となるときもあった。探せた家具や雑貨のメモを取ったり、記事の下書きを書いたり、瞑想したり・・・して小一時間過ごした。いくら経っても店の人はほっといてくれるし客の出入りも静かで落ち着ける。するとしだいに自分がここに居るのかどうかわからなくなってくる。店の壁に同化しているような気がする。透明になってしまったような“どこか遠〜い感覚”がやってくる。きっと今、自分は我を忘れた顔になっているだろうな、と思う。洋菓子店やカフェテラスでは起こらないこの忘我の時間がたまらなく好きで、だから喫茶店通いは止まらなかった。むろん夢のようなひとときはすぐに終わって現実に引き戻されるのだが、それでも足や頭は蘇っているので次の目的地へと颯爽と(でもないが)歩き出せた。過酷な街歩きを必要とされるスタイリストにとって喫茶店はオアシスだった。そして今思う。そうやって日に何杯も飲んでいたことが“コーヒーなしでは生きていけない体”を作ってしまったのだなあ、と。

ルーツは祖母から

初めてコーヒーの味を知ったのは、これも古い話でもうしわけないけれど今から60数年も前の小学生の頃だ。確か日本国内にインスタント・コーヒーが出回る2,3年前と思う。祖母が従姉妹や兄に淹れたのを少し頂戴し、角砂糖を浸して啜ってみたのだ。それは少し前に観たイタリアかフランスだかの映画のシーンのまねっこで、映画では小さな男の子が父親のコーヒーカップに角砂糖を入れたのを囓っていた。それを観て“私もやってみたい”と思った。で、母の実家に遊びに行ったとき祖母に申し出た。映画ではその男の子はまずそうな顔をしたが、私は角砂糖から染み出てきたものを美味しいと感じた。なぜなら“おこげ”の味がしたからだ。私はおこげが好きで何でもかんでも焦がしてもらう子供だった。その好みの味を角砂糖から吸い取ってしまうと、次に“ちびっと”カップに入れてもらって啜った。さすがに苦くてそのときは2、3口でお手上げだったが、おこげの味は後を引いた。
そのあとの冬休みや夏休みは、母の実家に遊びに行くたび祖母にコーヒーをねだった。「おやおや」と笑いながら祖母は6人分のコーヒーの準備をした。母の実家は熊本市近郊の古い温泉町の米屋で、祖母がコーヒーを淹れ始めると私は裏の精米所にいる祖父や使用人のおじさん2人と母屋の二階で勉強している従姉妹を呼びに行き、だいぶ少ない量だったけれどみんなに混じってコーヒーを啜った。それは少し大人に近づいた気のするひとときだった。掘り炬燵に入れた脚を組んだりして、かなりごきげんに振る舞っていた記憶がある。
大人になってこのことを思い返し、田舎の米屋のおかみさんがどうしてコーヒーを淹れるなどと洒落たことができたのだろう、と疑問に思うようになる。コーヒーのみならず紅茶も本格的に淹れていたし、“そば粉巻き”と呼んでいた今で言うクレープやプリン、自家製のジャムや葡萄酒まで作っていたのだ。現在ならわかるが昭和も20年代の話である。その頃の田舎のおばあさんがおやつに出してくれるものと言えばボタモチとか漬け物ではなかったか。なのにうちのばあちゃんは。不思議なことだ。それであるとき母親に訊いてみたのだ「ばあちゃんはなんであんなにハイカラだったの?」と。
すると認知症になりかけていた母だったがそのときだけは頭脳明晰な笑顔になって「それはね、女中頭だったから」と言い放った。女中頭・・・思いもしない言葉に私は唾を飲んだ。何、女中頭だと?時代劇じゃあるまいし、お母さん、やはり頭いかれてるのか?どうか記憶が別の何かと混濁していませんように、と、祈る思いで母の話に耳を傾けた。
祖母は私が生まれる半年ほど前、前妻を亡くしてヘタっていた祖父の後添いとして大阪から嫁いできた人、ということは知っていたのだ。血の繋がりがないことも小さい頃から祖母本人に聞かされて知っていた。が、それ以前のことは何も知らなかった。
母の話によると、祖母は大阪の商家の生まれで、やはり商家に嫁いで男の子を産むが夫に先立たれ、子連れで実家に戻ったという。子供は女手一つで育て上げ、その子が結婚し独立したあと縁あって熊本の古い温泉町の米屋の後添いとなるのを選ぶ。「そして産まれたばかりのあなたのばあちゃんになったとよ」と母は笑う。ふうん、それはわかるが女中頭ってどういうこと?「それはね」と母、勝ち誇ったように続ける。
「子供を育てるには働かなきゃいかんでしょ。それでばあちゃんは大阪の財閥の家に女中見習いとして入ったって。えらかねえ。あの人、頭いいし、気働きがいいからね、財閥さんに気に入られて何年も勤めあげ、女中頭にまでなったと聞いとるよ。さすがねえ」
なるほど、と腑に落ちた。母の記憶がどこまで正確なのかはわからないが話の筋は通っている。そういう経過で我が祖母は、コーヒー、紅茶、クレープ、ジャムや葡萄酒作りなど、当時のハイカラ生活が身
に付いていたってことだったのか。
そのおばあさん仕込みのコーヒー好きも、中高生になるともっぱら“パフェ”や“レモンスカッシュ”に走りコーヒーから離れた。また、その頃はインスタント・コーヒーの全盛期で、父や兄が朝からぐるぐるとカップをかき混ぜている光景がなぜか癇に障るのだった。ハイカラではないと思ったのだろうか。コーヒー好きに立ち戻れたのは、世の中が少し豊かになり、自分自身もインスタントしか置かれていなかった家を離れ一人暮らしとなり、若者でも豆や挽いた粉を何とか手に入れられるようになってからだ。18歳から2年間通った四谷3丁目のセツ・モードセミナーがきっかけだった。白亜の洋館のような建物の2階のラウンジで長沢節先生が淹れてくれたドリップ・コーヒー・・・そこから我がコーヒー人生の本格的な幕が開くのだが、もう長すぎますね、この話は来月にまた。

つづく。

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