コーヒーと映画と与太と妄想と 第十三回 最終回

宝石のかけらのような記憶について

昔から私の中では・・・コーヒーと言えばカタオカさん、カタオカさんと言えばコーヒー、という風に直結していて、美味しいコーヒーを飲んだときや”珈琲“という文字を目にしたときにはカタオカさんの顔が浮かぶ。カタオカさんはコーヒーかもしれない、と思うほどカタオカさんとコーヒーは切っても切れない関係にあるのだ。カタオカさん・・・とは、もちろん、小説家であり、評論家であり、エッセイストであり、翻訳家であり、写真家でもある片岡義男さんのことだ。いろんな顔をお持ちなので、当方もあるときは片岡さん、あるときはカタオカさん、と書いたり呼んだりしている(呼ぶと書いたが知り合いでもなんでもない)。昔からコーヒー好きとして有名で、コーヒーに関連した著書は、私が覚えているだけでも『コーヒーをもう一杯』、『珈琲が呼ぶ』、『僕は珈琲』と3冊あり、他の作品の中にもコーヒーについての独特の思考がひょいひょい顔を出している。

そういうことなので、「テーマは何でもかまいません。好きに書いてくだされば」という依頼でスタートしたこの連載、何でも、と言ってもコーヒー屋さんのウェブである以上何らかのコーヒーにまつわる話を書くべきだろうと考えた第1回目から、いつかはカタオカさんのことに触れなくてはと思っていた。けれどきっかけが見つからないままときは流れ、気がつけば最終回である。おお、どうしよう、と焦る。カタオカさんとコーヒーのことは氏のご著書を読んでいただければいいとしても、私の記憶の中に宝石のかけらのように残っている片岡義男のワンシーン、これをどうする? という焦りがあるのだ。宝石のかけら、と言ってもほんのささやかなことだけれど、かといってあの一瞬のきらめきがお蔵入りになってしまうのは残念だ。思えば長い間、このまま闇に葬るのではもったいないと、誰かに、あるいはどこかに、そのことを話したい、書きたい、と願ってきたのだった。そして今、であれば今、ここに書かないでいつ書くというのか。

と思い、取り敢えずスターティング・ポジションを決めようと、コーヒー本では一番近著の『僕は珈琲』を棚から取り出した。それが2023年6月半ばのことである。この本はすでに2回読んでいる。私は良き睡眠を得るため寝る前本を読むのだけれど、その2回とも、ページを捲れば懐かしさと日々の愉しみが溢れ出てきて、知らなかったこと知っていたこと、興味深いエピソードなどが映画のように、走馬灯のように登場してきて、やたらと楽しく面白く、気がついたら朝になっていた。一度などは原稿締め切り当日で、寝るのはあきらめそのまま睡魔と戦い続けるという過酷な羽目に。眠るべきとき片岡さんのコーヒー本は“要注意”だと自省した。
ところが読み返し3度目となる今回、睡眠をたっぷり取ったのちの午前中であるにも拘らず、なぜか先に進まない。数行読むと眠くなるのだ。瞼が重くなり手もだるくなり5、6分ほどで本を手放し寝落ちしている。夜は夜で、二日も三日も同じページを開いたまま夢の中で喘いでいる。どうもおかしい。全身だるい。風邪だろうかと体温を測ると、低温人間にはめずらしく6度7分を越えていた。さらに翌日は37度越える。37度を超えるなんて、私の長い人生の中で記憶にあるのは、インフルエンザで2回、帯状疱疹で1回、急性膵炎で1回、の計4回しかない。それらほどにはつらくないが同じ37度超えだ。では今もしかしたら非常時ってことではないか。ときがときだからヒョッとしてアレではないか。と、迷った末に病院へ行くとアレだった。
コロナの症状としては軽い熱と眠気とだるさくらいでどうってことなく、熱はすぐに下がった。あとは家に1週間ほど篭って静養すれば終わりと思っていた。けれど・・・甘かった。後遺症というやつが出たのだ。匂いも味もまったくしなくなり倦怠感がすこぶる激しい。起きていられず、何かというとすぐにヘタって横になる。まるで軟弱なぬいぐるみである。こんな症状は初めてだ。ドクターから「そのような状態が1年以上続く人もいる」と脅されおののいていたが、幸運にも私の場合、味覚と嗅覚まるでナシ状態はひと月くらいで終わった。けれど極度の倦怠感は9月いっぱい、つまり3ヶ月ほど続いたろうか。猛暑のだるさも重なって、何もやれないやりたくない、ただフラフラしているだけのゾンビのような日々から抜け出し人間に戻れたのは10月に入ってからだった。
で、再び『僕は珈琲』を手にした。スターティング・ポジション決めの再挑戦である。頭と体がスッキリした今回は快調に読み進み、読了後、深くため息をつく。やはり面白すぎる。自分には手の届かない高いところに面白さが渦巻いている。でも、だからこそ、よし私も!となった。氏の洒脱な文体に刺激を受けて、やっと書きたい自分を取り戻せた。あのささやかな宝石のかけら・・・コーヒーとは関係のない話だけれど今こそ書きどきではないか、とパソコンを開く。そして画面を見つめていると・・・ゆっくりと過去に吸い込まれていく自分がいた。

私がナマ片岡義男氏にお目に掛かったのは1977年の春頃だ。赤坂のホテル・ニュージャパン(このホテルは1982年2月8日未明発生した死傷者多数の大火災惨事でその後閉館した)の最上階の一室だった。その頃私は創刊したての雑誌「クロワッサン」のライター仕事と併行して、角川春樹事務所発行の映画雑誌「バラエティ」の編集部員としても働くことになっていた。そうなったことの経過はややこしいのでここでは省くが、その日は10月創刊予定の「バラエティ」をどういう内容、形にするかという大雑把な企画会議だったと思う。そこに角川書店文芸誌「野生時代」編集長のWさんと共に角川の社員でも何でもない片岡義男氏がお出ましになったのである。
開いたドアから入ってこられたお姿を見て、テーブル上に筆記具などを並べていた私は「えっ!」と思わず後退りした。けれど私も大人の一員。なぜ?なぜ?なぜ? という驚きは必死で抑え、「こちらへどうぞ」と、なんでもない風を装いサラッと言った。そのとき私が29歳だから9歳年上の片岡さんは38歳だったろうか。
当時映画制作に燃えていた角川春樹社長は自前の角川映画宣伝のための雑誌が欲しかったが、自社宣伝のみでは世の中に広く受け入れられるはずもないので、その日はそれを「さてどうする?」、というアイデア会議なのだった。10月には社長キモ入りの角川映画第二作「人間の証明」の公開が予定されていて、同時に「バラエティ」を創刊し宣伝効果をあげようという狙いなのだ。が、それまでに半年しか残されていない。雑誌の立ち上げに充分な人材獲得の余裕はなかった。けれど角川社長は意気軒昂で「少人数で突っ走るぞー!」とあくまでも強気だ。その“個人商店もどき”の勢いだけで始まった(ような)雑誌創刊の企画会議に我々編集部員以外に集まる人っているのだろうか、と思っていたから、“あの片岡さんが”と仰天したのだ。
「バラエティ」の編集に携わるのは、編集長としてキネマ旬報から引き抜かれたBさんと私とフリーライターK君の3人だけだ。この3人では大きな話にはならないだろうと、社長は自分の右腕でもあるWさんと小説家片岡義男氏のお二人をアドバイザーとして招いたのだろう。片岡さんはその2年前「スローなブギにしてくれ」で野生時代新人文学賞を受賞している。その頃から社長は片岡さんの感性にいたく信頼をおいていたようである。であればここに片岡さんが現れるのも不思議ではない。
などと思いを巡らせながら会議を見ていた。熱しやすい角川社長の弁を冷静に解きほぐしていくWさんの“社会性”もさすがだったが、ここぞというときにしか口を開かない片岡さんの気の利いた一言には、なるほど、と幾度も頷いた。すでに「スローなブギにしてくれ」や「ロンサム・カーボーイ」を読み、片岡さんの理知的で日本人作家特有の湿気を完全に取り払った明るく透明な文章にやられていた私は、文章と本人の口にする言葉との完全一致の場面をナマで目にして頭の中で拍手していた。もちろん湿気の多い文章にも好きなものは多々あるのだけれど、とにかくそれが“ない”ことがその当時としては驚きであり新鮮であり魅力的だったのだ。村上春樹氏の登場はまだまだあとのことになる。
会議の詳しい内容は忘れてしまったが、客室係が持ってきたコーヒーのおかわりを片岡さんに運ぶとき、ふと足元を見たことは覚えている。素敵なウエスタン・ブーツが見えた。ウエスタン・ブーツを履くときは普通なら上はGジャンや皮ジャン、ウエスタン・ジャケットとなるけれど、その日の片岡さんはウールのジャケットに白いシャツ、パンツはチノかジーンズだった気がする。その至ってノーマルな服装の足元に、凝った刺繍のエレガントなウエスタン・ブーツがそっと覗いていたのだ。そのさりげなさは彼の小説の中のワンシーンを思わせた。見とれた私は彼の前にカップソーサーを置くのが少し遅れた。
片岡義男という人物をこの上なく物語るその一瞬は、宝石のかけらのようにキラキラと輝いて私の瞼の奥に強く焼き付き、片岡義男という文字を見ると今でも鮮明に浮かび上がってくるのだ。

青いインクの太くこじんまりした文字もかけらのプラスワンとして書き残しておこう。私が「バラエティ」の編集に携わって良かったと思えることは2つある。一つは「人間の証明」で主役を演じた松田優作氏と、彼が角川事務所に顔を出したときに二言、三言だけれど言葉を交わし合えたことで、もう1つは片岡さんのナマ原稿を読めたことだ。今はパソコンで書かれているはずだから、ナマ原稿を目にできる編集者は、もう、たぶん、いないだろうと思うと、その幸運を拝みたくなる。毎月だったか、隔月だったか、ときどきだったか、覚えていないが、それは締め切り前にきちんと封書で送られてきていた。
原稿は、もちろんモノ(特に文房具)にこだわる片岡さんだから四百字詰原稿用紙の升目の大きい特注ものだ。線は薄い灰色だったか。そこに鮮やかな青いインクで書かれた太くてこじんまりした文字が並んでいた。それは美しいとも言えた。この“こじんまりした文字”というところに片岡さんの妙味があると思う。当時はまだスタイリストも続けていた私は、ここに使用されているのは太いペン軸で人気のあるモンブランの高級万年筆マイスターシュテックだろうと踏んだ。その太いペン軸で文字を小さめに、というかこじんまりと書くのはなかなか難しいはずだ。インクが重なってシミのようになりやすい。普通なら太いペン軸で書かれた文字は升目いっぱいに大きくなるのだ。なのに片岡さんの青い文字は升目の中にこじんまりと律儀に佇み、きっちりと読みやすく直しもない。さすがと感心した。その文字は私に“お行儀のいい少年”を思わせ、イコール片岡義男その人を感じさせた。文字は人を表す、という言葉があるが、まさにその通りだと原稿を読みながら頷いた。

ということで片岡さん賛美は終了する。最後にオマケ話を付け足すと、だいぶあと、2003年頃だったか、某出版社の編集者から「片岡さんの新しい本に推薦文を書いて欲しい」という依頼の電話があった。青天の霹靂とはああいうことだ。私はしばらく声が出なかった。何で私に?! と。
ドキドキしながら話を聞いた。新刊本は「文房具を買いに」というタイトルの、片岡さんお気に入りの文房具についてのエッセー集という。「もとモノのスタイリストさんにお願いできたらと思って連絡してみました」と編集の人。私の頭の中は鳴門の海のように渦巻いていた。私の駄文で片岡さんのご本の推薦文を書くようなことは、恐れ多くてできませぬ、と。よしんば書いたとして、片岡さんに「これじゃ何だかなあ」と思われでもしたら私は穴に入って永遠に出たくなくなるだろう、と。
つまり弱虫が涌いたのだった。片岡さんに読まれても恥ずかしくない文章を書く自信がなかった。編集の方にはもうしわけなかったが、忙しくて時間が取れないと丁寧にお断りして受話器を置いた。

もったいなかったなあ、と今は思う。でも、恥をかかないで済んで良かった、とも思う。おかげで今、離れたところで「僕は珈琲」などを楽しく読んでいられるのだから。コーヒーを飲むときは、今カタオカさんはどんな豆を好んでいるかな、どんな淹れ方をしてるかな、どんなカップに注いでいるかな、などと勝手に思ってリスペクトしているだけで充分満足だ。
いと愉しきなり 妄想は    蟋蟀

 

ありがとうございました。今回でこの連載は最終回です。でも吉本さんの連載はリニューアルしてまだまだ続きます。どうぞお楽しみに!


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コーヒーと映画と与太と妄想と 第一回